第286回   工藤を待ちながら  1999.11.16





「エレベーターに乗ったとき、どちら側に振り返っても、必ずボタンは反対側にある」というマーフィーの法則があるそうだ。なるほどそういうことなら振り返ろうと思った側とは反対側に振り返ったらエレベーターの裏をかけるわけか、しょせん相手はただのエレベーター、人間の知恵にはかなうまい、などとくだらないことを考えていたのだが、この法則も肝心のエレベーターが来なければ何の役にも立たない。

 そう、エレベーターが来ないのだ。いくら待っても来ないのである。このビルの五階の東京支社で工藤と落ち合う約束なのに。約束の時間まであと五分。それまでにエレベーターは来るのだろうか。
 東京支社のあるこのビルに来ていつも思うことだが、エレベーターに階数表示がないのは不便である。あるのは上りと下りのランプだけだ。エレベーターホールには六基のエレベーターがあり、呼び出しボタンを押してもどのエレベーターが来るのかわからない。来る直前になってポーンという音とともに上りか下りのランプがつくので、あわててそちらへ走っていかねばならないのだ。何度か乗り遅れたこともある。いったいどうなっておるのだ。ホントにここのエレベーターはまともに動いているのだろうな。階数表示がないのをいいことに、五基は省エネのため停止していて実際に動いているのは一基だけ、などということはないだろうな。そうでも考えないとこの遅さ、とても納得できない。
 しかし、そんなとこでセコく経費削減などしてどうなるのだ。エレベーターの稼動にどれくらい経費がかかるのか知らないが、ここで待たされている私の時間のロスの方がはるかに経費がかかってるんじゃないのか? ええと、どれくらいかというと、私の給料を一月の勤務時間で割って時給を求めると……ううっ、こ、こんなに安かったのか。計算するんじゃなかった。しくしく。
 そういえば、デパート等では階数表示のあるエレベーターが複数並んでいることがあるが、あの表示を見ていると奇妙なことに気付く。なぜか、エレベーターがすべて連動して動いている場合が多いのだ。一基が最上階から下降中だったら、その隣の一基も最上階から下降中。一基が三階から上昇中だったら、もう一基も三階から上昇中。適当にばらついて動いていた方が利用する側としては便利なのに、なぜこんな動きになるのだろう? うむ、これはカオス理論で説明できそうだぞ。
 つまり、ばらついて動いていたら当然先に来た方に人が乗る。乗り降りに時間がかかるから、そのエレベーターは少し遅れることになる。すると、もう一基との差は縮まる。さらに次の階でも先に来た方に人が乗り、それは遅れてもう一基との差は縮まり、ついには連動して動くという状態で安定してしまうのだろう。たまたま一基が少し遅れたり進んだりして連動が乱れても、すぐに安定状態に復帰してしまうのだ、なるほど。ううむ、カオス理論とはあんまり関係なかったな。まあいい。しかし相変わらずエレベーターは来ないぞ。

 仕方ない、エスカレーターを使うか。ここのビルはショッピングモールが入っている関係で、三階まではエスカレーターがついているのである。あと二階くらいなら、全体力を振り絞ればなんとか階段を上っていけるだろう。というわけでエスカレーターへ向かった。
 おっと、と乗ったとたんによろける。ああびっくりした。ううむ、ここのエスカレーターは普通よりちょっと速いんじゃないか? あまり速すぎると危険だぞ。エスカレーターの速度というものは、JIS規格か何かで決まっていないのだろうか。それとも設置者が状況に応じて自由に設定できるのだろうか。デパートのは遅くて駅のは速いとか。東京のは遅くて大阪のは速いとか。そういえば、モスクワの地下鉄のエスカレーターは速いので有名らしい。自由落下より速く降りるという話もある。恐ろしいことだ。

 三階まで来たら、次は階段である。荷物が重いのでけっこうきつい。ふと、あるボランティア団体の人の話を思い出した。
 駅の階段などで車椅子を運ぶときに、一人では無理なので周囲の人に協力を求める。なるべく若くて体力のありそうな人に声をかけるのだが、それでも断られることもある。しかし、絶対に断らないのが、カップルの男性だ、というのだ。確実に手伝ってくれる。なるほどねえ。まあ、彼女の前でいいところを見せようという見栄でもなんでも、それで車椅子の人が助かっているならよしとするか。
 などと考えているうちにやっと五階に着いた。

 約束の時間まであと三十秒、なんとか間に合った。と思ってフロアを見回したが、肝心の工藤がいない。工藤はどこに行った。巨人か中日か。できれば阪神へ来てほしいのに。いや、その工藤ではない。
 そのまま待ったが、来る気配すらない。もう約束の時間は十分も過ぎているぞ。仕方ない、この間を利用して雑文でも書いておくか。パソコンを取り出して喫煙コーナーの机に陣取り今までの経緯を書き始めた。
 十五分ほどで現時点までたどり着いたのだが、相変わらず工藤は来ない。いったい何をしているのだ。ちょっと様子を見て来ようと思ってエレベーターホールへ出た。ちょうど扉が開いたので中を見たら、そこに工藤がいた。こら、遅いぞ。
「いやあ、悪い悪い。三十分前にはここまで来てたんだけどさ、エレベーターから降りようとしたら扉の隙間に百円玉落としちゃって。あわてて管理会社へ電話して、エレベーター全部止めてさっきまで捜索してたんだ」
 おっ、おまえのせいかっ、エレベーターが来なかったのはっ。
「でも、ちゃんと収穫はあったぞ。落としたのは百円なのに、二百五十二円も発見できたんだ。ほらほら、これ」
 ええい、そんなことのためにっ。とりあえずその金でコーヒーでもおごれっ。
「あっこら、何をするんだ。オレが見つけたんだからオレの金だぞっ」
 いいからよこせって、ほら。
「やめろってば!」
 ちゃりちゃりちゃりーん。
 あっ、また落ちた。……知ーらないっと。




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