第315回   ジタンの煙が目にしみる  2000.7.2





 高校時代の生物の教科書に載っていた「タバコモザイクウイルス」という名前のウイルスが気になって仕方がなかった。
 気になっていたのはその名前だ。関係があるようなないような三つの名前が組み合わさっている。タバコとモザイクとウイルスである。漢字で書くと煙草と模細工と初留守だ。部屋とTシャツと私や優しさとせつなさと心強さやセックスと嘘とビデオテープや虎と狸と河馬さんよなどと同じくらい奇妙な組み合わせである。
 初留守というのはもちろん、生まれて初めて家を留守にすることだが、最近はこれをきちんと「ういるす」と読める人も少なくなってきた。多くの人は「はつるす」と読んでしまうのである。初産を「はつざん」、初孫を「はつまご」と読んでしまうようなものだろうか。しかしさすがに初陣を「はつじん」と読んだり初スキーを「はつすきー」と読んだりする人はいないようではあるが。
 話がそれた。タバコモザイクウイルスの話だった。その生物の教科書によると、このタバコモザイクウイルス、結晶になるのである。生物のくせに結晶になるとは、なんと節操のないウイルスだろうか。この私でさえ、化粧はするが結晶にはならないというのに。サッカーの日本代表など、ワールドカップでは決勝どころか一勝さえしていないというのに。なんともうらやましい話である。
 そしてこのモザイクウイルス、タバコだけかと思ったらそうではないのである。他にはキュウリモザイクウイルス、ニンニクモザイクウイルス、ダイズモザイクウイルスなどが有名である。それだけではない。サトウキビモザイクウイルス、チューリップモザイクウイルスなども存在する。さらにサトイモモザイクウイルス、ヤマノイモモザイクウイルスという早口言葉のようなものまであるのだ。実に恐ろしいことである。
 また話がそれた。そもそも今回は煙草について書こうと思ったのである。マクラはこれくらいにして、そろそろ本題に入ろう。

 煙草といえば。紙巻き、葉巻、手巻き、パイプ、キセル、水パイプ、噛み煙草、嗅ぎ煙草、果ては古代インディアンの土塁喫煙法などというなんだかよくわからない吸い方までいろいろあるが、そもそも人類が煙草を吸い始めたのはいつ頃だろうか。一説によると、紀元数世紀にメキシコのタバスコ地方に文明を築いたマヤ族が宗教的な儀式のために吸ったのが始まりだという。麻薬や興奮剤の代わりとして、神と交わるための媒体として用いられたのだ。さらに病気を治すための薬としても使われたという。
 そしてマヤ文明が滅びたのち、喫煙の習慣はアステカ文明に受け継がれ、十五世紀の終わりには南北アメリカ大陸中に広まっていた。それをコロンブスが梅毒とともにヨーロッパに持ち帰り、梅毒とともにまたたく間に世界中に広まった。日本にも江戸時代の初期に梅毒とともに渡来している。悪い習慣ほど広がるのは早いもので、まさに悪事千里を走る、といったところか。
 そして、人は何のために煙草を吸うのか。空腹をごまかすため、というのは情けない理由だが、十六世紀のヨーロッパでは万能薬として吸われていた。セビリア大学教授モナルデスの『医薬史』(1565年)によれば、煙草は風邪・喘息・頭痛・胃痙攣・婦人病に効くとされている。また煙草の煙は腸を清浄化する作用があると考えられていて、口とお尻の穴に二本のパイプを差し込んで煙を吹き込む、などという治療までおこなわれていたのである。その二本のパイプ、ちゃんと「口」「尻」と書いて区別してあったのだろうか。前の人の尻に入ったパイプをくわえさせられたりしていないだろうな。ぶるぶる。まったく恐ろしい話である。
 さらに予防注射の代わりに使われていたという例も多い。1636年にオランダにコレラが流行したときはコレラの予防薬として飛ぶように売れ、1665年のロンドンのペストの流行の際にもペストの予防薬として珍重されたのだ。まったく、今から考えると隔世の感がある話で、現在の世の中で「煙草にもいいところがある」などと口にしようものならたちまち嫌煙者の団体に袋叩きにされてしまうだろう。
 それはそれとして、煙草はおしゃぶりの代わりだ、と主張したのはイギリスの動物学者モリスである。彼によると、人間は口に物をくわえる動作によって精神的な安定を得るという。だから、煙草を吸うのは赤ん坊じみたことで、熱い煙を思いっきり吸い込むのは、赤ん坊のころ母親のおっぱいを飲んだときのことを思い出させるのだ、ということである。ううむ、そうかなあ。私だったら、やっぱりそんな代用品よりも実物の方が……あ、いやいや。

 まあそれはともかく、やめたいやめたいと思いながら煙草を吸っている人も多いだろう。そんな人には、マーク・トウェインのあの有名な言葉を贈ろう。
「煙草をやめるなんて簡単なことだ。私はもう、百回以上も禁煙している」

 しかし私は、まだ一度も禁煙したことはないのであった。そしてもちろん、まだ一度も離婚したこともない。




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