第319回   ウイルス進化論  2000.9.10





「ご隠居さーん、いるかい? おーい、ご隠居さーん」
「なんだい、誰かと思えば熊さんじゃないか。いるかもいないかもないだろう。一間っきりの長屋なんだ、さっきからあんたの目の前にいるよ」
「おや、ご隠居、お久しぶりで。百二十年ぶりくらいかなあ」
「何を言ってるんだ、昨日床屋で会ったところじゃないか。で、今日は何の用だい?」
「容態の用だい」
「何だい、それは。はっきり言いなさいよ」
「ええ、あっしの容態なんですけどね。どうも今朝起きてから頭が重い、喉が痛い、体がだるい……」
「熊さん、そりゃ風邪だよ風邪」
「そうですかねえ。こりゃやっぱし、いま流行りのコンピューターウイルスってヤツに感染したんじゃねえかと思うんですが」
「おいおい、馬鹿なことを言っちゃあいけないよ」
「ひょっとして昨日床屋で、ご隠居にうつされたんじゃねえかってことで、ちょいと文句を言ってやろうと思ったんでさあ。だいたい、ご隠居もご隠居だ。その頭じゃあ、床屋へ行っても何もすることがねえでしょうが」
「ええい、わしの頭のことは放っといてくれ。ほら、耳の上あたりにちょっと残っているだろうが。まあそれはいいとして、あのな熊さん、熊さんはコンピューターウイルスについて大きな誤解をしているよ」
「えっ、誤解してますかねえ? だってほら、ご隠居さんは年甲斐もなくコンピューターなんか使ってるし。ほらそこのちゃぶ台の上にパソコンが……おっと、いけねえいけねえ、近づいたら感染する。くわばらくわばら」
「熊さん、熊さん。あのなあ、コンピューターウイルスってのはなあ……」
「ご隠居さんも、そんな危険なものをその辺に放り出しておいちゃあいけねえや。ちゃんとお祓いをしてお経を唱えてお札を貼って封印しておかねえと」
「熊さん、熊さん。コンピューターウイルスにそんなものが効くわけないだろう」
「あっ、やっぱりそうですかい。きりしたんばてれんの妖術には、日本のお祈りは通じねえってことか。ならば聖水をふりかけて十字架をかかげ、アラーの神に祈って邪神セトに生け贄を捧げ……」
「熊さん、熊さん。話がどんどんずれていってるぞ。いいかい、コンピューターウイルスってのはなあ、コンピューターにしか感染しないんだよ。細菌兵器なんかじゃあないんだ」
「細菌兵器? やっぱり危ねえや。くわばらくわばら」
「熊さん、熊さん。大丈夫だって言うのに。コンピューターにしか感染しないんだから」
「えっそうなんですかい。でもご隠居、携帯電話に感染するウイルスってのもあるじゃねえですか。いくらあっしでも、携帯電話がコンピューターでないことくらいわかります」
「ううむ確かに、携帯電話に感染するウイルスもあるなあ……」
「ほらほらご隠居、コンピューターだけじゃねえでしょうが。ウイルスってのは、日々進化してるんでえ。やっぱり危ねえや。くわばらくわばら」
「まあ熊さん、お待ちなさいって。携帯電話に感染するのはなあ、中にマイコンが入っているからだよ。コンピューターウイルスってのは、マイコンに感染するんだ」
「えっマイコンに? だったらうちのマイコン炊飯ジャーも危ねえのか。そういえばこの前、ご飯を炊いたつもりだったのにおかゆになってたことがあったっけ。ううむ、恐るべしコンピューターウイルス」
「熊さん、熊さん」
「マイコン電子レンジも危ねえな。そういえばこの前、ゆで卵を作ろうとしたら爆発したっけ。ううむ、恐るべしコンピューターウイルス」
「熊さん、熊さん」
「マイコン冷蔵庫も危ねえ。せっかく買ってきたマグロの刺身、昨日見たら賞味期限が切れてやがるんでえ。ううむ、恐るべしコンピューターウイルス」
「熊さん、熊さん。そりゃあ単にそそっかしくて物忘れがはげしいだけだろう。ウイルスのせいにしちゃあいけないよ」
「ううむ、そうなのかなあ……」
「まあ確かに、そういうウイルスがないとは言い切れないのが怖いところだがな。インターネット冷蔵庫とかインターネット洗濯機とかなら、感染することもあるかもしれないな」
「ほら、やっぱり危ねえや。するとご隠居、今朝から私の体の具合が悪いのも、ひょっとするとこの最新式インターネット人工腎臓がウイルスに感染したからじゃあ……やっぱり人間にも感染するじゃねえですか」
「怖いことを言うなよ熊さん、そんなことを言うから、なんだかわしも胸が苦しくなってきたぞ」
「それはひょっとして、この前ご隠居が手術して取り付けたインターネット人工心臓がウイルスに感染して……」
「ううっ、ひょっとしたらそうかもしれん。そんな恐ろしいウイルスが出回っていたとは……。やはりこれはKGBの細菌兵器か?」
「KGBの細菌兵器? ならご隠居、大したこたぁないや。昔は危なかったけど、最近は平気でしょう」
「ううっ、そんなしょうもないオチを聞いたらますます苦しく……」




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