第324回 ビリー・ザ・キッド 2000.12.10
運動会の話を書こうと思っていたのだが、だらだらしているうちに十二月になってしまった。すでに旬は過ぎているけど、来年の秋まで寝かせておくのももったいないので書いておこう。
最近の小学校の運動会、特に徒競走は、私などが小学生のころの運動会からかなり様変わりしているようだ。もちろん、学校側はよかれと思って変えているのだろうが、しかし問題もないとは言えない。どこが問題かというと、たとえば新聞の投書欄などにたまに載るこんな文章を読んでもらえればわかるだろう。
息子の笑顔が見られた (横島市・主婦 匿名 38才)
毎年この時期になると私の小学五年生の息子はいつもふさぎ込んでいました。息子は足が遅く、徒競走ではいつもビリになっていました。それがイヤで、運動会に行きたくない、と言うのです。毎年、そんな息子の尻を叩いてなんとか運動会に送り出していたのですが、徒競走で半泣きになりながらみんなからはるかに遅れてゴールする息子の姿を見るのはやっぱり辛いものがありました。
それが、今年は違っていたのです。運動会の数日前になっても普段と変わらない様子なので、あきらめの境地に達したのかな、と思っていたのですが、そうではありませんでした。運動会の当日、私は残念ながらカミセンのコンサートに行っていたために息子の走りは見られなかったのですが、家に帰った私を息子は笑顔で迎えてくれました。「かけっこで一等になったよ」と言うのです。とても嬉しそうな笑顔で、見ていると私も楽しくなってきました。
でも、どうして今年は一等になれたのでしょう。急に足が速くなるなんてこともないでしょうし。そう思って息子に聞いてみると、今年から徒競走のグループの選び方が変わった、ということでした。息子の学年は六クラス、去年までは単純に出席番号順に各クラスから一人ずつ選び、その六人を一グループとして走らせていたのです。これでは、学年で足の遅さベスト10に入ろうかという息子が一等になれるはずがありません。小学校入学以来ずっとビリのままでした。
ところが、今年からグループの選び方が変わったのです。クラスの全員を足の速い順に並べ、その順番に一人ずつ選んでグループを作るのです。息子は、一番足の遅いグループに入りましたが、残りのメンバーは息子よりもさらに足の遅い子供ばかり。このメンバーで走って、息子は見事一等になれたのです。
息子の笑顔が見られて、本当によかったと思います。学校側も、足の遅い子供のことを考えた配慮をしてもらい、とても感謝しています。ありがとうございました。
ううむ、その年になってカミセンのコンサートに行くのは問題だなあ。
いや、そうではなくて、まあ確かにそれも問題だが、今は徒競走の方の問題の話である。
息子が一等になって、この主婦は喜んでいる。私も子供のころは足が遅かったから、いやもちろん今でも遅いのだが、足は遅いが手は早いなどと言われることもあるが、いやいやそれは関係ない、まあとにかくこの主婦の気持ちもよくわかる。息子が一等になって嬉しいだろう。それはいい。問題は、他の子供のことである。この主婦の息子は一等になったが、そのレースでビリになった子供も、確かに存在するのである。
その子供はどう思っているだろう。今年からグループ分けが変わって、一番足の遅いグループで走ることになった。去年まではずっとビリだったが、今年はさすがにそんなことはないだろう。と期待して走ったら、やっぱり今年もビリだった。つまりこれは、僕は学年一足が遅いということか。あああ、なんてことだ。天は我を見放したか。神も仏もないものか。そして僕は悲嘆にくれる。
なんと残酷な話だろう。去年までは、まあ確かに僕も足が遅いけどでも僕より遅いヤツだって学年内には一人くらいいるさ、そう思っていたのに、自分が一番遅いという情け容赦のない現実を目の前に突きつけられるのだ。これは悲しい。そしてそして、去年まではずっと一等だったけど今年はビリになってしまった、と泣いている子供だっているはずだ。この主婦の息子のように喜んでいる子供がいる陰で、やっぱり悲しんでいる子供もいるのである。
しかしまあそれも当然のことだ。グループ分けをどのように変えたところで、グループの数が同じであるなら一等になる人数もビリになる人数も変わらない。今までビリだった子供が一等になれば、今まで一等だった子供が一人、はじき飛ばされるのである。一等になって喜ぶ子供の数、ビリになって悲しむ子供の数は今までと同じである。よく考えてみれば当たり前のことだ。
このようなものが、学校側の「配慮」と言えるだろうか。どうせ配慮するなら、悲しむ子供の数が最少になるような配慮をすべきではないだろうか。どういう配慮をすればよいか、ちょっと考えてみよう。
まず考えられるのは、グループ分けをやめてしまって学年全員を一度に走らせる、というものだ。こうすれば、ビリになる子供は一人ですむ。……いや、しかし、それでは一等になる子供も一人しかいない。確かに悲しむ子供の数は最少に抑えられるが、喜ぶ子供の数も抑えられてしまう。これはあまり嬉しくない。では、子供たちを一人ずつ走らせればどうか。こうすれば、全員が必ず一等になれる。しかし、同時に全員がビリでもあるのだ。これもあまり嬉しくない。なんとか、悲しむ子供の数を減らして喜ぶ子供の数を増やす方法はないだろうか。
……考えてみたが、どうもなさそうだ。人数を減らしたり増やしたり、どのようにグループの分け方をいじってみたところで、必ず一等と同じだけビリもできてしまうのである。磁石のN極とS極のようなもので、磁石をどのように分割しても必ずN極とS極ができてしまう。N極だけ、S極だけという磁気単極子すなわちモノポールのような、一等だけ、ビリだけというレースは存在しないのだ。必ず双極子になってしまうのである。モノポールは未だ発見されていないし、一等だけというレースも発見されないだろう。もっとも、磁気三極子というものはすでに実用化されていて、便器の清掃などに使われているようだが。
話がそれた。とにかく、ビリになる子供の数だけを減らすというような都合のいい方法は存在しない……ん? 待てよ。ここはちょっと発想の転換をしてみよう。レースを最後までおこなおうとするからいけないのだ。途中で打ち切ればいいのである。一等の子供がゴールインした時点でレースは終了、あとの子供には順位をつけない。こうすれば、一等の子供はグループの数だけいるし、ビリになる子供は存在しない。そんな中途半端なレースでいいのか、という声もあるだろうが、まあマラソンなどでも、ものすごく遅れてゴールインしてみたら係員も観客もいなくてそこにはただ風が吹いているだけ、順位なし、というのはよくあることだ。特に問題はないだろう。
どこかの学校で、来年の運動会からこの方式を採用してくれたら嬉しいことである。
そして、この発想の転換が、モノポール発見のヒントにでもなればさらに嬉しいことである。
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